共同ブログ

僕が本当に学習障害かどうか、ハッキリさせようとしない訳

鏡に映った自分をみつめる男のイラスト

読み書きが少し苦手。
たぶん、軽い学習障害(ディスレクシア/難読症)かボーダーライン上にあるようだ。
3年半ほど前に、医療機関のネットで公開している簡易検査で知った。
それっきりで、精密検査を受けたことはない。

ハッキリさせた方がよいのかもしれない。
こうやって自分のことを語るさいに、推定では弱いから。
思い込みや、仮病で言っているんじゃないかと疑われるかもしれない。
お墨付きをもらっておく方が説得力がある。

でも、あえて推定に留めている。
なぜか?

金つかって、検査して、よくなると思えない

お金がかかるというのが一つある。
いくらぐらいか知らないが、それ相応の病院に行って、検査を受けるんだろう。
そんな金はない。
それがために働くなんて、なんだかやる気が起こらない。

検査して、もっと読み書きが楽になるんなら喜んで受けるが。
そんなことはないだろう。

15年以上かかったが、まあまあ人並み程度になれた。
ここから先に向けて、何か画期的なアドバイスをもらえるとは思えない。
医者の仕事ではないだろうから。

親に気を遣う

学習障害は先天的なものだろう。
そこにあまりこだわり過ぎるのは親に申し訳ないような気がする。

自分は学習障害かもしれない、そう考えると読み書きに拘って引きこもっていることの説明がつくと一度言ったことがある。
そのときは、そうとう勇気がいった。
アホなことを言うなと頭ごなしに否定されるのは嫌だが、泣かれる方がもっと嫌だから。
幸いそのときは、意外なことを言うな、なんだそれって感じで受け取られたようだった。
でも、親に検査代をせびったり、検査を受けたことを知られるとどうだろう。

僕は、学習障害であっても親を恨んだりはしない。
いってみれば何不自由なく育ててもらって、50歳手前の今だって一円も家に入れずに気ままに実家で過ごさしてもらっている。
親子関係がいいとは言えず、売り言葉に買い言葉で喧嘩ばかりしているが。
結局のところ、うちの親はかなり甘い。
ありがたいと思っている。

もし、学習障害でないとしたら

それともう一つ。
これが一番大きい。

もし、学習障害でないとしたら怖い。
健康であることは幸いなことだが、それじゃあ、一体全体、僕はどうして読み書きが苦手なのか?

20代半ばで読み書きの問題に直面し、なんとかしようと曲りながらも取り組むようになった。
30代後半で自分が思っているよりも大きなネックになっていることを自覚し、益々のめり込むようになった。

その間、ずっと、自分が何者か規定できないでいた。
アイデンティティの喪失状態だ。
とても辛かった。
不安定な気持ちだった。

無職、引きこもりなんだが、それがアイデンティになるとは思えなかった。
好奇心を満たしたい、ものすごく得意になってなにか職につなげられたらと思ってきた。
しかし、それを一言でいえばなんなのか。
夢追い人か、テンネンか、現実みてないアホか。
どれも正しいのだが、この異常なまでの読み書きに対する執着心、低過ぎる技能、高すぎる目標のどれも言いえてない。
その点、学習障害は、ぴったり当てはまるように思う。

自分が学習障害かもしれないと分かったときは衝撃だった。
いまでもよく覚えている。

読み書きが苦手であることはもとより、勉強嫌い、集中力が続かない、やる気が起こらないといった、小学生以来なぜ自分はそうなのかとずっと疑問に思っていたいたことが、学習障害というキーワードで全て繋がった。
自分自身に対する最大の謎が突然解けた爽快感があった。

同時に、障害ならば、人並みを大きく越えるような成果は、これ以上どんなに頑張っても無理だろうから、とても悲しい気持ちになった。
逆に、訳も分からず、もうがんばらなくてもいいと、安ど感もあった。
そして、このへんで諦めて別の道を探ろうという気が初めて湧いてきた。

自分を障害者にみたてるのには抵抗がある。
でも、今のところ、これしか自分が自分であると規定できない。
もし、ハッキリさせようとして、専門家に学習障害ではないとか、その可能性は非常に低いと言われ、それに代わる僕が納得するようなもっともな表現を与えてもらえなかったとしたら?
また、あの辛い日々が待っている。
それは、何としても避けたい。
曖昧のままのほうがメリットが大きいのだ。

2018年6月4日 月曜日 でがらし