共同ブログ

投稿一覧:全て(767件)おいなり(767件) 題名一覧:全て

感想は正しいか気にせず言おう

挙手

観た映画やドラマや、読んだ本、行った旅行先などの感想を聞かれた時、答えたほうがいい。
その感想が間違っているとかはないから、気楽に答えたらいい。
聞いた人が、正確に知りたい場合は自分で調べるから、答えたほうがいい。

例えば、

A「『闇金ウシジマくん』読んだことあるんだよね?」
B「うんあるよ」
A「あれってどういう話なの?」
B「怖い話」
A「闇金ってことは金融の話?」
B「うん、そう」
A「ミナミの帝王みたいな?」
B「あれも闇金だね」
A「人気だけど、どういうところで人気なの?」
B「面白いから」
A「笑えるってこと?」
B「笑えないよ」
A「ミナミの帝王は笑えるシーンもあるけど、暗い話?」
B「そうだねえ」
A「どういうストーリーなの?」
B「闇金の話だよ」
A「取り立てる話? ミナミの帝王から笑い抜いた版みたいなの?」
B「あれも闇金だけど、似てるって言ったら似てるけど違うって言ったら違う」
A「どういう所が似てて、どういう所が似てないの?」
B「闇金ってことでは一緒だけど、細かい所が違うよ」
A「そもそもどういうストーリーなの?」
B「闇金と闇金利用した人の話」
A「乱暴に取り立てるとか?」
B「そうだよ」
A「人気になってるっていうのはどういうところが理由なの?」
B「話が面白いから」
A「どういうところが?」
B「内容ってことだね」
A「どういう内容?」
B「闇金ウシジマくんの内容だよ。話のこと」
A「話が面白くて人気で、面白いっていうのは笑えるからじゃないってことなんだけど、どういうストーリーで、どういう点で受けてるの?」
B「笑える話じゃないから受けてないって。ストーリーはさっきから説明してる通り」

だと、一向に進まない。

私だったら、

「闇金の経営者が主人公で、そこを利用する人、客の特徴的な行動や心理の描写がリアルで人気なの。主人公がウシジマって名前なのでタイトルが『闇金ウシジマくん』っていう。『くん』が付いてるのは怖さを緩和させて、重苦しくない軽さを出すためだと思うんだけど、そこが逆に『これは日常で起こってることだぞ』ってことで、簡単に悲惨なことになる感じが出てて逆に怖い。でも、そのウシジマくんはたまにしか出てこなくて、そこの客の描写がメイン。利用するパチンコ中毒者とかの行動パターンや、歪んだ思考、変なプライドなどなどを描いてる。単に闇金から金借りて返せずボコボコにされるって話じゃなくて、金返せなくなるような行動や考え方を描いてるので、『そりゃそうなるわ!』って思えて、『悲惨な結末が見えた!』って感じで途中で怖くなってくる。客はパチンコや風俗の中毒になってて、中毒者の症例集みたいな感じ。『ああそういう人いるわ!』って感じで、客のことを遠くにいる人じゃなくて、身近にいる人って感じられて、ストーリーが現実味を帯びてて、『ありそう』『リアル』って思える。そういう意味で、リアリティがあるって所が怖くて人気の作品。単にボコボコに殴るシーン連続で怖いって漫画じゃないの。心理恐怖漫画。」

とか答える。

感想に正解はないので、「どういう所が面白かった?」って聞かれて、「内容が面白かった」じゃなくて、「この部分が面白かったよ」って答えよう。

2022年2月17日 木曜日 おいなり

善い人を好きな私の感性は善く、その感性を持つ私は善い人?

炎上

最近ユーチューブのドッキリ動画のコメント欄に、「この仕掛け人本当はいい人なんですよ?」みたいな書き込みがあって、「なぜ、いい人ってわざわざ言うんだろう?」って思いました。
いい人の仕掛け人が悪いことをするとそのギャップで面白いけど、なぜ「本当はいい人」って言うんだろう?
「普段のいい人と仕掛け人の悪い人の時のギャップが最高だ」という意味なのかな?

考えた結果、「こういうことかな?」ってものが浮かんだ。

「私はこの人のファンです。この人は善い人(いい人)です。善い人を好きな私の感性は善く正しいです。そして、その感性を持つ私は善い人で正しい人です。この人が悪い人になると私も悪い人ということになります。だから、それを防ぐためにも、この人は本当は善い人だと知ってください」という自己防衛のためってのが。

もっと考えると、新しいの浮かんだ。

仕掛け人としてドッキリを仕掛けたのに、それを仕掛け人としてではなく、仕掛ける人がそれをしたくてしたと思われて炎上するのを防ぐため。
今炎上社会だし、ドッキリを本気に捉えて、仕掛け人に対して「悪い人だ!」という非難が来るのを防ぐため。

いろいろ考えた結果、炎上を防ぐために「これはドッキリでやってるだけで、この人はいい人です。炎上させるのは筋違いですよ」という意味で、「この仕掛け人本当はいい人なんですよ?」なんだな。ファンとしてその人を守ろうとする発言。

なるほどなあ。今、炎上社会・遵守社会・言葉規制社会だからなあ。

2022年2月14日 月曜日 おいなり

善い・悪いで考えない

マル・バツ

善い・悪いって、ヒーローものとかでは分かれてるけど、日常では、そんなことない。善い・悪いで考えないほうがいい。

例えば、体調悪くて会社休む場合、それは善いのか悪いのか。
体調を回復させるために休むんだから善いのか、会社の人手が足らなくなるから悪いのか。
従業員のやりくりは会社の役割だから自分は悪くないのか、体調管理が不十分だったということで自分が悪いのか。

日常ではほとんど、どっちでもいい、どーでもいい。

飲食店に入って、店員が他のお客さんへの接客中で自分への声掛けが遅かった場合、それは善いのか悪いのか。
店員が接客中だから自分が待てばいいので悪くないのか、店員が「少々お待ち下さい」とも言わなかったから悪いのか。

こういうのも、善い・悪いで考える必要なく、どっちでもいい、どーでもいい。

善い・悪いで考えるんじゃなくて、気になるのなら、会社休むのは出勤した時に会社の人に何か食べ物でもあげとけばいいし、店員の声掛けが遅いのは「すみません!」って呼べばいいし。

2022年2月14日 月曜日 おいなり

味の感想は言ったほうが良い

マスク会食

何人かで初めての飲食店に行って、別々の料理を注文して、自分の食べてる料理の味を聞かれた場合、味の感想を言ったほうが良い。
聞く理由は、いろいろある中から選んだ料理だけじゃなくて、他の料理の味も知りたいから。知って、想像したり、次来た時の選ぶ参考にしたりする。
店が混んでるなら喋らずに食べて外出てから感想言ったほうが良い。

味聞かれたら、「私の食べる?」じゃなくて、「醤油味だけど、薄味で食べやすい。サッパリしてる。重くない。野菜も多いし女性向けな感じだけど、自分は健康志向だからこういうのが好きだし、おいしい」とか。
「薄めの醤油味」ってのが味で、「おいしい」は自分が好むか。

厳密な調査をするわけじゃないから、「私の食べたら味分かる。ちょっと食べますか?」じゃなくて、自分の感想を言えば良い。相手がさらに味を聞いてきたら、「食べますか?」と言えば良い。

「どんな味?」と聞かれて、「うん? おいしいよ?」じゃなくて、どういう味付けなのか答えたほうが良い。甘いとか、辛いとか、酸っぱいとか、濃いとか、薄いとか、サッパリとか、重いとか、醤油味とか、味噌味とか、豚骨味とか。あと、味とは違うけど、熱いとか冷たいとか。

聞くのも変じゃないよ。珍しい料理があった時とかも、例えば「その、和風ハンバーグってどういう味? ハンバーグなのに和風なんだよね?」とか聞くでしょ。これは味を聞かれてるだけだから、「和風ハンバーグは普通のハンバーグとは違って邪道かもしれませんが、別に選んでも良いですよね?」みたいに答えるんじゃなくて、味を答えたら良い。選んだ料理を否定されたとか、味の厳密な調査をしてるとかじゃなくて、「味はどういう感じ?」って軽く聞いてるだけなんで、軽く答えたら良い。

2022年2月14日 月曜日 おいなり

感想を言うことと決めること

「決定」のハンコ

A「この店来たことあるんだよね?」
B「ありますよ」
A「どれがおいしい?」
B「人それぞれではないですか?」
A「前どれ食べたの?」
B「これですけど?」
A「それおいしい?」
B「だから好みは人それぞれですよね?」
A「どれがオススメとかある?」
B「好きなの選べばいいのではないですか?」
A「いろいろあるから迷うなあ」
B「いろいろありますね」

こういう会話って、Bさんが「私は前回これ食べておいしかったですよ。濃い味なんで、濃い味が好きなら選んでいいと思います」とか言えば、Aさんが選ぶのもすぐに済むんじゃない?
しかもそれは命令じゃなくて、単なる感想を言っただけだから、Aさんがそれを選んでおいしくなくてもBさんには責任がないし。
それに、Aさんは決めてほしいんじゃなくて、情報を欲しくて言ってるだけだから、相手を尊重して言わないとかじゃなくて、言えばいいんじゃない?
好みは人それぞれって当たり前で、そのうえで、選ぶ参考にするために聞いてるんだから、情報を言えばいい。

例えば、

A「この店来たことあるんだよね?」
B「ありますよ」
A「どれがおいしい?」
B「これが一番人気なんですけど、私は食べたことないです」
A「前どれ食べたの?」
B「これです」
A「それおいしい?」
B「おいしかったですよ。ソースとケチャップとマヨネーズが大量にかかってる濃い味付けなので、そういうの好きならおいしいと思いますよ」
A「そっかー、濃い味付けねえ。そこまで濃いの好きなわけじゃないからなあ。どれがオススメとかある?」
B「前回はその濃いの食べておいしかったんですが、まあ、普通の味覚の人にこの味付けは濃すぎるので、こっちのハーフアンドハーフってやつがいいですよ。味付けがそこまで濃くないし、2種類の味を楽しめるのでいいですよ。食べておいしかったですよ」
A「選ぶの時間かかりそうだから、それ試してみるわ!」

みたいな感じ。

「私はどれを選べばいいですか?」みたいな決定を委ねるような質問には「好きなの選んで」でいいけど、「どれがおいしいかな?」みたいな質問には「これおいしいですよ」みたいに答えたらいい。

ちなみに、決定を委ねるような質問っていうのは、

A「この店来たことあるんだよね?」
B「ありますよ」
A「どれ選べばいい?」
B「ハーフアンドハーフがおいしいですよ」
A「それ選べばいいの?」
B「好きなの選べばいいですよ」
A「どれがいいの?」
B「濃い味付け好きなら、これもいいですよ」
A「それでオッケーなの?」
B「私が選ぶのではないですから、オッケーとかはないですけど」
A「どれがオッケーなの?」
B「一番人気はこれです」
A「それでオッケーなの?」
B「いや、別にオッケーじゃなくて、単に一番人気ってだけなんで、まあ大半の人はおいしいって感じるんじゃないですか?」
A「それ選んだらいいんだよね?」
B「別に好きなの選んだらいいですよ」
A「振り出しに戻ってませんか?」
B「え、なんですか?」
A「話が最初に戻ってますよ」
B「私が決めるのではないから」
A「そんなこと言わないでくださいよ」
B「濃い味の好きな人はこれがいいとかはありますけど、別にオッケーとかはないですよ。Aさんはどんな味付けが好みなんですか?」
A「好みとかじゃなくて、どれがいいんですか?」
B「一番人気はこれですけど」
A「それ選べばいいんですよね?」
B「いいんじゃないですか?」
A「どうなんですか?」
B「いやだから、選べばいいんじゃないですか?」
A「いいんですね?」
B「知らないですって」
A「何がですか?」
B「どれを選べばいいとかって」
A「冷たいですね」

みたいなの。
こういうのは、冷たい・冷たくないじゃなくて、感想や情報は聞いた上で決めるのは自分だから。相手が「これがいいよ」って言って「それにしよう」って答えて決める場合も、決めるのは自分だから。相手が決めて自分はそれに従っているだけだから責任はないみたいな話ではない。それに食べ物を決めるだけで責任とかはないから。A「それ選べばいいんですよね?」B「いいんじゃないですか?」で、Aさんがそれに決めた場合も、決めたのはAさんだから。
Aさんにとっては強要されるレベルじゃないと、自分の責任回避ができないと思って、Bさんから「これにしろ!」って怒鳴られるまで決めないんだと思う。

B「これにしろ!」
A「そうですか。それにします」

なら、Aさんは「私はBさんから命令・強要されて選んだので、選んだ責任、味の責任、全ての責任は私にはないです。私は被害者です。私は悪くないです」みたいな考えになって、安心するんだと思う。
でも、これを選んだら善い・悪いとか、被害者・加害者とかはないと思う。好きなの選んだらいいし、迷うなら感想聞いて選べばいいし。

2022年2月13日 日曜日 おいなり

わざわざ「嫌い」と言わない

オネエ

好きか嫌いか聞かれた時は、「好き」と答えても「嫌い」と答えても良いけど、何も聞かれず単に「私納豆好きなんだ」と言ってる人がいた時は、わざわざ「私は嫌い」とは言わずに、「そうなんだ。大粒が好き? 小粒が好き?」とか聞くほうが良い。
ただ、嫌いな人が多い物なら、「げっ、マジで? ヤバいって」とか言われることもあるけど、それは否定っていうより、「ビックリした! 理由を少し教えて」みたいな意味。
嫌いな人が多くない物なら、「わざわざ『嫌い』って言わなくていいよ」っていう答えになる。

2021年12月27日 月曜日 おいなり

好き・嫌いと肯定・否定

BAD! GOOD!

例えば、「納豆好き?」という話になった時、
A「納豆好き?」
B「大好きだよ。」
C「嫌いだよ。少しも食べられない。」
この会話で、BさんはCさんの言葉で否定された訳ではない。
これで、
B「えっ? ダメなの?」
C「うん。大嫌いだなあ。」
という会話になった場合、Bさんのこの「ダメなの?」が、「Cさんは納豆が嫌いなんだね。珍しいね。」みたいな意味なら問題ないけど、「納豆好きな私はダメなの?」の意味なら問題ある。
A「納豆好き?」
B「大好きだよ。」
C「嫌いだよ。少しも食べられない。」
B「えっ? ダメなの?」
C「うん。大嫌いだなあ。」
B「なぜ?」
C「糸が気持ち悪いし、味もネチャネチャしてるから。」
B「私は好きだけど。」
C「そうなんだ。私は嫌いだよ。」
B「どうしてそういう事を言うの? 私は好きなんですよ。」
C「好きか嫌いかの話をしてるから、『私は嫌い』って言ったんだよ。」
B「納豆は良いでしょ。」
みたいな会話になれば混乱する。
Cさんは、納豆そのもの、納豆の価値を否定してるわけではない。Cさんにとって納豆は嫌いと言ってるだけ。Cさんは、Bさんが納豆好きなのを否定してるわけでもない。

2021年12月27日 月曜日 おいなり

キャラ立ちさせよう

自己分析

最近怖いニュースが多いけど、加害を防ぐには、自分をちゃんと意識し「自分」ってものを持てばいいと思った。
そのためには「キャラ立ち」が大事だと思った。
「自分はこんな人なんですよ」っていう特徴です。個性とか。
人間みんな、経済力の違いはあるけど、良いとかダメとかなく、みんな「普通」。
で、普通で個性豊かな人の集まりが社会。
その社会で生きる自分にはどんな個性があるか考える。
「これこれといえば、誰々さんだね」という感じで。
趣味とか特技とかあればそれが使えるし、明るい性格とか細かい性格とかも使える。
私の場合、特技面では、「パソコンに詳しくて、パソコンのマニアックなことまで知ってる。パソコンの修理をしてくれる。」とかです。
性格面では、「ひょうきんで、ヘラヘラしていて、素直。先輩・後輩関係なくいろいろ教えたり手伝ったりしてくれる。しょっちゅう物を配って、その物の凄さを力説してる。変態。子供っぽい。苦労してない感じ。」って感じです。
だから、この2つを組み合わせると、私のキャラは「子供っぽい変態パソコンオタク」になります。
誰でも長い時間作業してることが特技になります。
だから、誰でも特技はあります。
こうやって、特技+性格で「自分はこういう人です」っていうのを、短い言葉で決め、キャラ立ちさせて伝えたらいいと思う。
自己喪失、自己が無、他人が自分、自己幽体離脱は超危険。自分を意識して生きよう。

2021年12月22日 水曜日 おいなり

自己否定は一番ダメ

死神

自己否定は一番ダメです。
最近、物騒な怖いニュース多いですね。
「死のう」と思って、人を殺す事件。
私は、「どういうこと?」って思いました。
「死のう=自分を殺す」のはずなのに、「死のう=他人を殺す」になるのは恐怖。
なぜそうなるのか考えたら、「他人が自分になってるから」だと思いました。
自分で自分を「好きだな」と思えず、他人にどう思われてるか気になってるからだと思いました。
その他人の考えを消せば=その考えを持つ他人を殺せば、その他人に評価をされる・価値を判断される自分が消えると考えたんだと思う。
相手の中にしか自分は存在しないと思ってるんだと思う。相手の外には自分は存在しないと思ってるんだと思う。
人間は関係の中で生きる生き物だけど、そういう人は幽霊みたいな状態になってるんだと思う。
「『私はあなたの一部』だから、あなたを殺せばその一部である私は死ぬ。だからあなたを殺す。」という考えに達したんだと思う。
常に、「あなたは私のことをどう思う?」「私は良い人ですか?」「私は素晴らしいですか?」って気になり続けると起こると思った。
自分で自分を肯定する自己肯定や、ありのままの自分を受け入れる自己受容は、とても大事だと思った。
人を殺すのも自分を殺すのも、ダメダメ。尋常じゃないぐらい怖い。他人の評価をあんまり考えずナルシストになって酔ってれば大丈夫です。自己満足最高です。
とにかく、最近のニュースが超怖かった。ガクブル。

2021年12月22日 水曜日 おいなり

親戚が悪化

扉

親戚で、「犯人は韓国人」「中国人は信用できない」「工場の仕事なんか中国人がやる仕事」とか言ったり、店員や公務員の行動を「アカンやん、ダメやん」とか言ったり、コロナはどうでマスクはどうだとか言ったり、マスコミはどうだとか言ったりする、15年ほどひきこもってるヤバい人の症状が悪化してきました。

開き戸や引き戸を開けたり閉めたり、カーテンを開けたり閉めたり、ドアノブを上げたり下げたりするのを何度も繰り返すようになりました。

なぜこうなったか考えると、たぶん、「自己否定感が強く、自分への非難を恐れ、韓国人・中国人・店員・公務員にその非難を向けようとそういう発言ばかりすることによって、『自分である』という感覚がなくなるが、実際には抑圧してるだけでなくなっておらず、抑圧している『弱く不完全な自分』と、虚勢を張る『強く完全な自分』との乖離が生まれ、それがストレスになったから」だと思う。

僕が考えるひきこもりの4つの型の中の「生真面目型」だと思う。完璧主義で、「強い自分」と「弱い自分」、「完璧な自分」と「ダメな自分」の二極化で自分を評価するんだと思う。「完璧じゃないとダメだ」という意識が強いんだと思う。「プライド型」とも言えるかな。

そういう人は、根拠なく「自分は最高」とは思えず、人からの助言とかを「ダメ出しされた! 舐められた!」とか激昂する。「私のことを『完璧じゃない』って言うのか!」って思いからキレる。

「自分は最高」っていうのは、何の根拠もなく思うのが大事であって、人から少し短いダメ出しされても、「ハハハ」って適当に笑って流しとけばいい。「最高・強い・有能」と「最低・弱い・無能」の中間の「普通の自分」を意識すればいいと思う。

「普通の自分」を受け入れることができれば、自分の気持ちを話せるようになる。そうなれば、現実と折り合いをつけ妥協し進むことができる。

完璧主義をやめ、普通の自分を受け入れ、自分の気持ちを話す。これが大事。

2021年12月22日 水曜日 おいなり